アキバ通り魔事件・第二幕

前々回のエントリーにて、加藤はそのせいを奪われてしかるべきと記述した。おそらく、現行の法制度では加藤はまず間違いなく死刑になるであろう。さらに鳩山法務大臣の元においては、刑は速やかに執行されそうだ。とはいえ、加藤がどのような労働環境におかれ、そして罪を犯すにいたったかを知らなくて良いという訳ではない。それは以前のエントリーにてこの事件に対して意見を述べた責任ということでもあるのだ。今回は、洋泉社「アキバ通り魔事件をどう読むか」を基に考えてみたい。

アキバ通り魔事件をどう読むか!? (洋泉社MOOK)

アキバ通り魔事件をどう読むか!? (洋泉社MOOK)

 はっきりしておきたいことは、加藤のおかれている環境から殺人へといたった部分においては、加藤にすべて原因がある。しかし、加藤の置かれている環境を作り出した原因は、加藤の責任だけではない。本書にて赤木智弘の記事が秀逸だったため、引用させていただくとしよう。

「中の上」とごく当たり前の仕事ぶりをごく当たり前に評価されていた加藤容疑者は、正社員として雇われてさえいれば、仕事にのめり込む事ができたはずだ。そして、安定した労働環境は、安定した生活につながり、誰かと出会い結婚もできたかもしれない。(中略)しかし、彼はそうした人生を送ることはできなかった。それは彼が努力をしなかったからでも我慢をしなかったからでもなく、この社会がそのような人生を、彼に与えようとしなかったからである。


そう、加藤は不真面目でも、能力が無いわけでも、働く意欲が無いわけではない。いたって普通の若者である。では、何が普通でないかといえば、その雇用形態と労働環境であろう。彼がいかに過酷な労働環境におかれているかについては、以下のエントリーに説明を譲る。


【秋葉原無差別殺傷】人間までカンバン方式


彼のように「カンバン方式」に組み込まれた労働者は、評価もされず、安定した雇用も与えられないことがこのエントリーから伺える。言い替えれば、がんばってもがんばっても報われない人間である。少なくても加藤が認められるには、正社員の数十倍、下手したら数百倍の努力をしなくてはいけないだろう。 加藤は勝ち組を妬んでいたとはいえ、労働者としては当たり前のことを当たり前に要求しているに過ぎなかった。このことについて、本書の雨宮処凛の記事に名文があったので、引用させていただくとしよう。

彼は毎日つなぎを着て派遣先の仕事場できちんと働いていた。怠け者ではないのだ。九〇年代の若者であれば、(中略)怒りの矛先はつまらない仕事に向けられたはずだ。しかし、実直だった彼は、仕事がしたかったし、ツナギが着たかった。働きたくないのではなく、働きたくてキレた25歳の派遣労働者。これは、せつなぎるほどに、せつない。

加藤が犯行にいたった原因のひとつとして、解雇されたということであったといえる。まぁ、これは勘違いだったようだが。とはいえ、加藤の最大の要求は、それなりの働きぶりをしているのだから、雇用を安定させてくれ、これからもはたらかせてくれという、本当にささやかな要求であった気がしてならない。


ところで、世の中では、「ワーキングプア」問題や「負け組」、さらには「フリーター」や「ニート」という言葉が定着して久しい。加藤は自分で自分のことを「負け組」と言っていた。そんな中、彼らに対して「僻みだ」「なまけている・けしからん」「本人の自己責任だ」と容赦ない視線を向ける人も少なくない。確かに、そのような状況になってしまうまでは、本人の責任も十分にあることは事実だ。しかし、そのような状況から抜け出せない理由は、本人だけが原因によるものではない。なぜなら、彼らは「使い捨て」役であり「使い捨て」はどこまでいっても基本的に「使い捨て」扱いだからだ。給料の多い少ないは、結婚にせよ趣味にせよ格差をもたらしている。しかし、それ以上に残酷な格差は、仕事ぶりが認められない、いつまでも安定して働かせてくれないという現実であろう。なぜなら、それは働くことに夢も希望ももてないからだ。


この事件を「格差社会」が引き起こした犯行という見方をする人は多いが、「格差社会」という言葉ばかりが先行しなぜそういった世の中になったかについて、本質的な議論をする人はいまだ少ない。格差社会」は国や大企業により、意図的に作り出されたものである。それは、1999年の派遣法改正がきっかけである。これは、バブル崩壊後、経営不振に悩む企業に対しての「打ち出の小槌」のようなものであった。こうして、安価な労働力をつかい、最高益を更新する日本企業が続出したのだ。だがその結果、金銭よりももっと残酷な機会の格差を生んでしまったのだ。こうした現実を無視して精神論・根性論を押し付けたり、彼らを蔑視することは、いい加減にやめるべきだ。そして、こうした労働環境をもたらした、国や大企業を批判すべきではないのか。第二・第三の加藤を生まないためにも。