PS3にやられた件(PS3を購入する前に読んでおきましょう)

[ご挨拶]

かなり遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
更新頻度が低いですが、今年も宜しくお願いします。

今年の目標を
ズバリ、健康に生きる!
(そろそろ、体力と気合だけでなんとかなる年齢ではなくなってきているので。)





さて本題をどうぞ。

正月にヤフオクで購入したPS3が家に届いた。
五万弱で購入した、PS2と互換性があるバージョンである。

今、手元にある薄くて軽いPS2が1万円近くで売れること、互換性が無いPS3が4万円であることを考えると、割と良い買い物ではないかと思ったのだが・・・。甘かったというかやられた。今回はそのお話。


1.無線LANが無い


これは完全に筆者の調査不足であるのだが、無線LAN機能が無いことに気がつく。調べてみると、購入したPS3は20GBのものであり、無線LANの機能は搭載していないことがわかった。60GBのPS3にはメディアスロット、無線LANなどを搭載しているが、価格が6万後半から7万円台に跳ね上がる。さすがにそこまでは出せないわー。


PS3のバージョンにおける違いはこちら。
http://ps3info.zerone.jp/


2.あれ?メモリーカード差込口が無いんですけど。


そう、メモリカードの差込口が無いPS3のセーブデータはすべてHDDに保存する。また、USBポートが搭載されているため、USBメモリを使ってセーブデータのバックアップ等も可能。


では、PS3PS2のセーブデータを移行するにはどうしたらよいかというと、別途メモリカードアダプターというものが必要になる。
http://www.jp.playstation.com/info/release/nr_20061003_ps3_peripheral.html


それをつかって、PS3仮想メモリーカードを作成して、転送する。PS2のゲームをやる際は仮想メモリーカードをスロットに割り当ててゲームをすれば問題が無い・・・。はずだが、2枚あるPS2メモリーカードのうち、一枚が認識しない。しかも、認識しないメモリーカードソニー純正のものなのに。仕方ないのでもう片方のメモリーカードにコピーして転送することに。


3.PS2のコントローラー差込口がない!


これが一番の問題。PS2の資産である数々のコントローラーやアーケードスティックが使えることが、xboxと比べてPS3の優れている点であると考えたのだが、その考えは脆くも崩れ去ることになる。PS2のコントローラーはっと・・・さ、差込口が無い。。。PS3のコントローラーはUSBポートを使う(無線機能があって便利ではある)。

そこで、PS2のコントローラーをUSBに変換するやつを使うことにした。
http://www2.elecom.co.jp/peripheral/gamepad/jc-ps201u/


が!格闘ゲームをやればダッシュすらおぼつかない、ビートマニアをやればGreatのタイミングでたたいているのにGoodを連発する有様である。どうやら、入力のタイミングが60分の5秒程度ずれているようだ。PCにつなげて入力を行う際、入力は遅れないため、これはPS3のハードウェアに起因する問題であることが明らかになった


つまり、PS2のコントローラーをPS3で使うことは実質上できないということになる。(もし、できる方法があれば教えていただきたい。)格闘ゲームをやる際にはスティックはほぼ必須であり、PS3のスティックは五千円以上は軽くかかる。しかも、ビートマニアならず音楽ゲーム全般の専用スティックはPS3では作られていない。これは、実質上プレイできないと言っても良いと思う。


ま、そもそもPS3でプレイできないPS2ソフトも相当数あるのだが。
http://www.jp.playstation.com/info/support/sp_20061111_ps3.html


結論としては、おそらく多くのユーザーがPS2互換性有りのPS3を買っても、PS2を手放すことはできないと思う。実際私もそのようになってしまった。据え置き機でゲームを楽しみたいのなら、PS2+Xbox360が最良コンビだと思う。理由を3つあげると、一つ目はXbox360の本体価格はPS3の半額であるから。二つ目は、当然PS2があればPS2のゲームは楽しめるから。三つ目はPS3で出ている大抵の売れ筋ゲームはXboxでも楽しむことができるからである。

例えば
真・三国無双5
ガンダム無双1・2
デビル・メイ・クライ4
ストリートファイター4(2月11日発売)
バーチャファイター5

PS3を買うにあたっての注意点を、意外と盲点になりそうな部分から伝えてみた。
参考になればうれしい。

コメ返し

>ぷちこさん

変更しておきましたー。
今年もよろしく。

アキバ通り魔事件・第二幕

前々回のエントリーにて、加藤はそのせいを奪われてしかるべきと記述した。おそらく、現行の法制度では加藤はまず間違いなく死刑になるであろう。さらに鳩山法務大臣の元においては、刑は速やかに執行されそうだ。とはいえ、加藤がどのような労働環境におかれ、そして罪を犯すにいたったかを知らなくて良いという訳ではない。それは以前のエントリーにてこの事件に対して意見を述べた責任ということでもあるのだ。今回は、洋泉社「アキバ通り魔事件をどう読むか」を基に考えてみたい。

アキバ通り魔事件をどう読むか!? (洋泉社MOOK)

アキバ通り魔事件をどう読むか!? (洋泉社MOOK)

 はっきりしておきたいことは、加藤のおかれている環境から殺人へといたった部分においては、加藤にすべて原因がある。しかし、加藤の置かれている環境を作り出した原因は、加藤の責任だけではない。本書にて赤木智弘の記事が秀逸だったため、引用させていただくとしよう。

「中の上」とごく当たり前の仕事ぶりをごく当たり前に評価されていた加藤容疑者は、正社員として雇われてさえいれば、仕事にのめり込む事ができたはずだ。そして、安定した労働環境は、安定した生活につながり、誰かと出会い結婚もできたかもしれない。(中略)しかし、彼はそうした人生を送ることはできなかった。それは彼が努力をしなかったからでも我慢をしなかったからでもなく、この社会がそのような人生を、彼に与えようとしなかったからである。


そう、加藤は不真面目でも、能力が無いわけでも、働く意欲が無いわけではない。いたって普通の若者である。では、何が普通でないかといえば、その雇用形態と労働環境であろう。彼がいかに過酷な労働環境におかれているかについては、以下のエントリーに説明を譲る。


【秋葉原無差別殺傷】人間までカンバン方式


彼のように「カンバン方式」に組み込まれた労働者は、評価もされず、安定した雇用も与えられないことがこのエントリーから伺える。言い替えれば、がんばってもがんばっても報われない人間である。少なくても加藤が認められるには、正社員の数十倍、下手したら数百倍の努力をしなくてはいけないだろう。 加藤は勝ち組を妬んでいたとはいえ、労働者としては当たり前のことを当たり前に要求しているに過ぎなかった。このことについて、本書の雨宮処凛の記事に名文があったので、引用させていただくとしよう。

彼は毎日つなぎを着て派遣先の仕事場できちんと働いていた。怠け者ではないのだ。九〇年代の若者であれば、(中略)怒りの矛先はつまらない仕事に向けられたはずだ。しかし、実直だった彼は、仕事がしたかったし、ツナギが着たかった。働きたくないのではなく、働きたくてキレた25歳の派遣労働者。これは、せつなぎるほどに、せつない。

加藤が犯行にいたった原因のひとつとして、解雇されたということであったといえる。まぁ、これは勘違いだったようだが。とはいえ、加藤の最大の要求は、それなりの働きぶりをしているのだから、雇用を安定させてくれ、これからもはたらかせてくれという、本当にささやかな要求であった気がしてならない。


ところで、世の中では、「ワーキングプア」問題や「負け組」、さらには「フリーター」や「ニート」という言葉が定着して久しい。加藤は自分で自分のことを「負け組」と言っていた。そんな中、彼らに対して「僻みだ」「なまけている・けしからん」「本人の自己責任だ」と容赦ない視線を向ける人も少なくない。確かに、そのような状況になってしまうまでは、本人の責任も十分にあることは事実だ。しかし、そのような状況から抜け出せない理由は、本人だけが原因によるものではない。なぜなら、彼らは「使い捨て」役であり「使い捨て」はどこまでいっても基本的に「使い捨て」扱いだからだ。給料の多い少ないは、結婚にせよ趣味にせよ格差をもたらしている。しかし、それ以上に残酷な格差は、仕事ぶりが認められない、いつまでも安定して働かせてくれないという現実であろう。なぜなら、それは働くことに夢も希望ももてないからだ。


この事件を「格差社会」が引き起こした犯行という見方をする人は多いが、「格差社会」という言葉ばかりが先行しなぜそういった世の中になったかについて、本質的な議論をする人はいまだ少ない。格差社会」は国や大企業により、意図的に作り出されたものである。それは、1999年の派遣法改正がきっかけである。これは、バブル崩壊後、経営不振に悩む企業に対しての「打ち出の小槌」のようなものであった。こうして、安価な労働力をつかい、最高益を更新する日本企業が続出したのだ。だがその結果、金銭よりももっと残酷な機会の格差を生んでしまったのだ。こうした現実を無視して精神論・根性論を押し付けたり、彼らを蔑視することは、いい加減にやめるべきだ。そして、こうした労働環境をもたらした、国や大企業を批判すべきではないのか。第二・第三の加藤を生まないためにも。

はてブか、コメントか

はてブと聞くと、はてなブログのことだと、どうしても思ってしまう。まぁ、はてなではブログと言わずにダイアリーというもんね。で、そのはてブだけど、もちろんその存在を知っていたけど、最近になってやっと使い出したところ、割と楽しい。

http://b.hatena.ne.jp/Nekomanma/ はてなブックマーク/ねこまんまのブックマーク


何といっても、はてブは100文字までのコメントが付けられるのが、イイ。100字で、しかも内容をきちんと読み取った上で、いいたいことをまとめる事は、文章力を鍛えるのにもってこいだ。また、あとで見返した時、その記事を見た当時何を考えていたかわかるという、日記的使い方もできる。むしろはてブのほうがダイアリーな気がしなくもない。



さらに、なんと言ってもはてブの楽しいところは、はてなスターを集めるところである。スターたくさんもらったときのうれしさを一言で表すと「いまいいこといった!」という気持ちになれるということである。

ただ、やはりブログに対して行う場合、コメントのほうがいいかなーと思うこともある。なぜなら、直接書き手に向けたメッセージとして受け止められ、レスがつく可能性も高いからだ。というのも、コメントの場合、コメント欄にレスがつくことが多いが、はてブの場合は次のエントリーにレスがつくようだ。コメントと違い、長文レスがつけられないのも痛い。


結局、はてブとコメントは一長一短な気がする。はてブとコメントどちらがいいんだろう?あなたはどっち?そして教えてエラい人!!


まぁ少し考えてみると、結局はてブソーシャルブックマークとはいえ、方向性は自分に向いているとは思う。それに対し、コメントは明らかに書き手に向いていると思う。どちらがいいかは、そのベクトルがどちらに向いているか、による違いであろう。


コメント返し

>goldwell さん

お久しぶりです。加藤がひどい労働環境であったこと、さらには備品を捨てるかのように解雇されたことは、本事件のトリガーとして考えられます。それが原因として決して納得できる理由ではありません。しかし、加藤のおかれていた労働環境は社会的に許されるものであるかは、別途論じなければならないとは思います。


というわけで次回予告アキバ通り魔事件と加藤の労働環境についてお送りします。

アキバ通り魔事件により失われたもの

かなりご無沙汰なので、とてもタイムリーな話題を。
6/8にあった、秋葉原(以下アキバ)における、通り魔というより無差別殺人には、正直背筋がぞっとした。というのも、私はちょうどニンテンドーDSのアレを買おうと、アキバへ行こうと思っていたところであった。一歩間違えれば私が被害者になっていたかもしれない。恐ろしい話である。
6/9の時点では死者7人、重軽傷者が10人であった。TVでは相変わらず、「命が粗末に扱われつつあり、ゆゆしきことかな。」といった論調が目立っている。ところが、今回犯人の加藤という男が奪ったのは人の生命だけではないのだ。

自称オタクで、アキバにおいて演説を行った麻生太郎氏によれば、電車の中で居眠りをしても平気なほど、治安のよい国は日本ぐらいのものだという。アキバにおける治安の良さの象徴は、歩行者天国であろう。道路の真ん中でコスプレをして踊るという、ほかの地域で行えば、補導されてもおかしくない奇怪な行為が、アキバならむしろ歓迎されていた。といっても、最近は警察が取り締まり、かなりケチがついたようだ。しかし、この歩行者天国がアキバをここまで有名にしたという事実には変わりない。これは他地域に見られないアキバだけの風物詩であり、歩行者天国がアキバ「らしさ」を作っていたといっても過言ではない。

こういった事件があると「平和ボケ」などといって警備・警戒の甘さを事が起きてから指摘する声がある。しかし、こうした治安の良さからくる性善説的なあり方が、日本らしさ、アキバらしさを作っているのではないか。確かに、最近のアキバはキャッチセールスや路上喫煙が問題になっており、取締りが強化されている。だが、今回の凶行は、それにさらに拍車をかける材料になることは想像に難くない。街中に警察官が配置され、歩行者天国がなくなるか、大幅に縮小されるかもしれない。警察官に監視されながらPCのパーツや同人誌を買いたい人なんて、どこにもいないはずだ。

また、経済的な視点で考えても、今回の事件が与えた損失は決して少なくないと思う。今回の事件により、アキバに行くことをしばらく控える人もいるはずだ。また、事件に居合わせた人々は、事件現場に近づくと、一種のトラウマになってしまい、アキバに近づけなくなってしまう人もきっといるはずだ。そしてなにより、アキバは観光地として注目されている地域である。いわば、今回の事件は皆の足をアキバから遠のかせたのである。算盤で数字をはじけばかなりの損失額がはじき出せそうである。

加藤という男は、それは人命だけでなく、文化といえるほど昇華されたアキバらしさ、日本らしさを奪った。さらに、アキバで商売をする人たちの生活の糧まで奪ったのである。もちろん、糾弾されてしかるべきだ。ただ、ここで私が納得いかないことは、加藤が精神鑑定にかけられて、異常が認められたとする。すると、数年で社会に舞い戻ってくるかもしれないということだ。(今のところ薬物の使用や精神的な異常は見られないようで、一安心。)もっとも、加藤は「人生に疲れた」「世の中が嫌になった」と供述しているという。それなら、世の中からその生を抹消されてしかるべきである。法治国家として、日本のあり方に期待したい。


参考

とてつもない日本 (新潮新書)

とてつもない日本 (新潮新書)



コメント返しはちょっとまってね。

桜でもどうぞ

更新とまっててすいません。
また時間に余裕ができてきました。

というわけで、去る4月6日にしだれ桜で有名な清雲寺にお花見いってきたのでその写真でも。


場所は西武線西武秩父駅から秩父線に乗り換えて
浦山口駅から歩いて15分ぐらい。

携帯のカメラにしては割と良く撮れているね!





コメ返し

>goldwellさん

おひさしぶりです。
更新少なかったのでコメすらろくに返してなくてすいません。。。
そうですねー。確かに愛国心の裏返しというより単にたたきたいだけっていうのは
あたっていたりします。特にネットの中ではそういう傾向が強いですね。


最近だと、チベット問題でいろいろと荒れてますが、食品で問題起こして間もないのにチベット弾圧(と、少なくても報道されてます)を行うと、余計印象悪くなりますね。んーあの国もタイミングが悪いというか、空気が読めないというか(笑)

おかしいよ!ギョーザ事件報道(後編)

2つ目の「祭り」は今回の事件をナショナリズム的な問題へと転化してしまったことである。筆者は、こうして安易にナショナリズム問題へと発展させることに対して、危惧を感じざるを得ない。

確かに、今回の事件において、中国側の対応は誠意があるとは思えない。また今までも中国産の商品は、おもちゃに高濃度の鉛が入っていたり、残留農薬が入っているなど、「前科」はある。*1だから、中国産の商品に対しての批判はあってしかるべきものなのかもしれない。だが、今回の批判は、本当に生産物だけが原因で、しかるべき批判しているとは思えない。むしろ、中国を批判したいという目的が最初に来て、その理由は食品でもスポーツでも何でもよいのではないかとすら思える。

なぜなら、私たちには、人によって程度は違えど、中国に対して、「気に食わない」という思いはどこかにあるからである。


例えば
・何かと歴史認識がどうのこうのとうるさい。
・石油などの資源を最近使いつぶしており、困る。
・最近、日本よりもはるかにGDPの伸び率が高くて、生意気。
・模倣大国。海賊版雨あられで、法整備とかはどうなっているんだまったく。
サイバーテロMMORPGでのノーマナー行為も中国発が多い。頭にくる。


などなどである。もちろんこういった意識は中国相手に限ったことではない。(こうした意識を持ちやすい国は言うまでもなくアメリカであろう。次は韓国か。)こうした意識が土台にあるから、何かしらの事件で「ほらみたことか!」となってしまう。そうして、自身の内にある「気に食わない」思いまでセットでぶつけてナショナリズム的争いが始まるのではないか。


もっとも、週刊誌が売れる手段、TVの視聴率が伸びる手段、あるいは政治家がインパクトある発言として捕らえられる手段としては、一般人のナショナリズムを煽るという部分は手っ取り早い方法のひとつである。今回の煽り方といえば、報道において「ギョーザ」や「天洋食品」という単語以上に「中国産」ということを強調されていたことが、まず挙げられる。また、政治においても、東国原宮崎県知事が「(今回の事件に関して)『中国には』ぜひとも是正していただきたい。」という発言もあった。


こうした動きとは対照的に、その後に起きたアメリカ兵の暴行事件は、マスコミは露骨にナショナリズム的批判(特に普天間基地問題との関連)を回避していたように思える。この動きに、私は政治的思惑や結びつきをどうしても感じざるを得ない。私たちは、中国以外の国からも食料を輸入している。そこで注意すべきことは、事故はまったくおきていないのか、起きているとしたら、割合としてはどのくらいなのか、その内容は何かしらの意図をもって報道されていないのではないか注意すべきではないのか。つまり、中国産の食品を食べること以上に、海外からの輸入に頼らざるを得ない現状をもっと危惧し、情報に耳を傾けるべきではないのかと思う。


これまで、幾度となく日本と中国は、ナショナリズム的争いを繰り広げてきた。歴史認識しかり、油田開発しかり、著作権しかり。確かに、ナショナリズムは人間として持っていて当然のものであり、両国が歩んできた歴史からも、ナショナリズム的衝突が度々起こることは不可避な部分がある。だからといって、事件の真実や自分たちのナショナリズムのありかたに対して目をそむけていいとは限らないのだ。


最後に、ナショナリズムは感情論であるため、その内容は常に行き過ぎるということ、を、筆者は付け加えておきたい。電車の中吊り広告で「中国によるギョーザテロ勃発か?」というものがあったが、あれは煽りすぎであろう。逆に、歴史認識問題でもめた場合、中国側が「日本人は過去の戦争を賛美し、再び中国侵略を計画しているのでは?」などという見出しがあったとしたら、私たちだってやりすぎと感じるだろう。
まだ原因ははっきりしてない時点で、こんなに騒いで問題は無いのであろうか。もし、毒物が日本国内で日本人の手による仕業だったとしたら、ここまで批判しておいてシャレにならないと思うよ。



以下コメント返し

>ぐるん

私もたしかすぐに餃子も中国産も食べたね。確かに言われると余計食べたくなるんだよねー。
変に意識しちゃうから、店とかでも「中国産じゃありません」って張り紙出さないで欲しいわ。


>goldwellさん

おひさしぶりです。そうですねー、暴行事件や船の追突事故と違い、食べ物は常に口にするものですから、一過性の問題で終わらせてはいけないんですねー。今回の論は、マスコミがナショナリズムを煽るという側面を訴えています。ですが、確かにgoldwellさんの指摘のとおり、マスコミは我々に考えさせるきっかけを与えてくれる、すなわち問題提起をしてくれるという側面もありますね。


最近だと、私にとっては日テレが最初に報道した「ネットカフェ難民」の報道が秀逸でした。「身なりは普通だが、生活は厳しい現代の貧困」として、ワーキングプア問題と相まって、社会に問題意識を与えたと思いますねー。朝日新聞偽装請負報道も、よかったですかねー。


>えろす

この間違い何度かしたことあるのう。
指摘?クス

おかしいよ!ギョーザ事件報道(前編)


最近は収まってきたが、一月下旬から始まった、いわゆる「毒入りギョーザ事件」報道は、まさに「祭り」であった。今回の「祭り」では、中国と中国産の食料が非難の雨あられになった。だが、非難と中国産製品の排除ばかりに目が行き、肝心な再発防止策や問題の本質がほとんど論じられていないことは、非常に残念である。今回は、この「祭り」を前編・後編二つの側面に分けて考えていこうと思う。


祭りの内容の一つ目は、餃子や冷凍食品のみならず、中国産の食物全体を排除しようとしたことであろう。確かに、中国産の食べ物はこれまで幾度となくその安全性に疑問を呈する事件ばかり起きていた。確かに、現に健康被害がでており、それが自分たちの身にふりかかるかもしれないとなると、人は保守的になるものだ。危ないものを排除するという行いはもっとも保守的なもののひとつだ。


だが、今回の問題はそんなに簡単なものではない。私たちが、普段の生活で中国産の食料をまったくもって口にしないことなどまず不可能であり、一時的に中国産の食料を排除したところで、その場しのぎでしかない。
なぜなら、これはご存知の人も多いと思うが、現在の日本の法律では、加工品に対して原材料の産地を義務付ける法律は無い。(梅干や干物といった、ほとんど原材料の姿形そのままのものを除く。)

中国産の野菜、米国産の肉、小麦、国産のニンニクを混ぜたギョーザが日本の工場で製造された場合、「国産」とされる。今回、回収されている製品の中にも天洋食品が加工した肉を使っていながら、「中国製」と表示されていないものもある。(読売ウィークリー2/17日号より)


また、食料自給率が低い日本において、外国の輸入に頼らずに生き延びるわけにはいかない。しかも、その食料の輸入相手としての中国は、アメリカに続く二位で、しかもアメリカに迫る勢いでその割合を増やしている。


<参考>http://www.jetro.go.jp/jpn/stats/trade/pdf/2005_import_2.pdf


だから、仮に中国からの食糧輸入をストップさせても、その減った分を他の国からの輸入を増やすことで代替することは不可能に等しい。


つまり、日本の食糧生産能力では、どうしても中国に頼らざるを得ないのである。肝心なその輸入に対する検疫の甘さが今回明るみになった。しかも、主権の問題もあり、おいそれと生産国工場を視察したり、従業員教育を行うわけにもいかない。だから、輸入品は生産段階から調べるわけにはいかず、輸入されてきた加工品自体を検査するしかない。それではどうしても対策が後手にまわってしまう。
残念なことに、自分、もしくは自分の大切な人が口にしているものが、どこの国の食料で、どこで生産され、どこの会社が安全検査をして・・・ということを何から何までキチンと知ることはできない。それが今の日本における食の現実である。

その現実を見据えた上で、さぁどうしようかと考えることが、本当に必要なことであろう。
生産者・生産工場の安全意識が問題?
チェック機関や法律のせい?
自給率の低下が問題?
メーカーがコスト削減に走りすぎてしまったから?
私たちが、食の安全を軽視しすぎていたから?
デフレ経済、低所得者層が増えているからどうしても安価なものに頼らざるを得ないから?

などなど、考えることは多数あると思う。
とにかく、中国産排除という「祭り」だけでは実質排除することもできなければ、何も前向きな進展が望めないのだ。
「祭り」が落ち着いた今だからこそ、きちんと考えるべきではないか。