ここがおかしいよ!教育論争!(後編)

続きます。
なぜ歴史はとにかく最後まで教えるべきかという理由の続きからです。


 二つ目の理由は、まったく疑いどころのない歴史も存在しなければ、まちがいだらけの歴史というものも存在しないからです。歴史学をやったことある人なら、「一次史料」と「二次史料」を思い浮かべていただければ話が早いと重います。一次史料とは、歴史の現場で使われたものそのもの(たとえば、皇帝の書簡など)を指し、二次史料は歴史事実を当事者や第三者が記録したものをいいます。マスコミの報道も二次史料です。二次史料は、一次史料と比べ、記録した人、報道する人の主観が入るため、一次史料より信憑性が低いというのが、一般的見解です。歴史教科書など、二次史料のカタマリです。そのため、批判をしようと思えばいくらでもできますし、あら捜しをしようと思えばいくらでも見つかるものです。物議を醸さない歴史教科書なんて、ありません。その内容を良くするために話し合うことは大切ですが、完璧を求めていてはキリがありません。どこかで折り合いをつける必要は、あるでしょう。


 一方、全く事実と反するような歴史を教えることもまた、できません。なぜなら、指導要綱でその方向性は割と細かく定められており、教科書検定も存在します。だから、「満州事変は日本側に非はない。リットン調査団のでっちあげである」といった、国際的評価がある程度決まっている出来事について、それと180度異なる記述を教科書にすることなど、できないはずです。なお、南京事件南京大虐殺)や極東国際軍事裁判東京裁判)といった、まだ評価が分かれている出来事については、「こういった見解もあれば、そのまた逆の見解もある」と、評価が分かれていると伝えればいいのです。
 
 
 もうひとつの理由は、価値観の多様化により、歴史教育だけで思想が固まるわけではないということです。歴史における思想的側面といえば、「愛国教育をいかに行うか」というものがそのもっとも根幹的なところでしょう。実際、愛国教育の必要性を訴える人は政治、教育の専門家だけでなく、一般市民にも訴える人は多いようですし、私も愛国教育をすること自体には賛成です。だが、問題はその程度であり、行き過ぎた愛国教育に対して、危惧を抱いている人も多いと思います。しかし、行き過ぎた愛国教育がはびこることは考えにくいと思います。というのも、社会を見渡すと「『集団』『国家』に貢献することよりも、『個』の充実、いいライフプランを立てることが大切」といった、個人主義の風潮も未だ強いように思えますし、今の子供たちに「日本人としての自覚と誇りをもち、国家に貢献することが大切」などと、露骨に愛国の大切さを説いても、「ダサい」とか思われるのがオチだからでしょう。こうした風潮があることにより、私は行き過ぎた愛国教育にストップがかかる、いい「浄化作用」をもたらすと思っています。ある意味、健全なことではないでしょうか。
 
 
では、どのようにしたら、特に近現代の歴史教育が行われていないという実態を打破できるでしょうか。


 方法としては、まず、単純に思いつくことは、歴史の時間を増やすことです。もしくは、教科書を小学校だけ国定にしてしまうなどして、何回目の授業ではこの項目まで教えるようにといったことを事細かく指定し、とにかく通年で歴史を近現代まで教えることを義務づける方法が思い浮かびます。より詳しいこと、物議を醸しそうな内容は、中学校以降で学ばせるようにします。ここで教科書出版会社が発行した、独自の教科書が使われることになるのです。しかし、ゆとり教育が叫ばれている昨今において、これ以上学校に行く時間を増やせそうにありませんし、ほかの教科でも学力低下が問題になっているため、ほかの教科から時間を割くことも難しいでしょう。また、皆一様に同じ教科書、同じ教え方で歴史を学ぶ姿勢には、批判が高まるでしょう。


 そこで、私がお勧めしたい方法は、歴史教育を数年かけて教える、「積み上げ型」という方法です。これは、西洋諸国で多く見られるやりかたで、小学校では古代を、中学校では中世を、高校では近代を教え、高校での最高学年で、近現代を教えるという方法です。この方法なら、古代、中世を長い年月を掛け行ってきたことで理解力を高め、なおかつ年をとり、物事の判断力がついた状態で一番難しく、一番大切な近現代を学ぶことができるという大きなメリットがあります。一方、東アジアで多く見られる「繰り返し型」で、小学校で歴史を一通り教えて、中学校・高校ででまた小学校で習ったことに肉付けをする形で、最初から一通り教えるのです。ですが、この方法だと、小学校・中学校・高校と近現代がスカスカの歴史を三度繰り返すことにもなりかねません。 
 
 だから、国会などでも歴史で教える内容を話し合うのではなく、歴史の教え方を、西洋型の積み上げ式にするべきかどうか。ほかには、歴史離れとどのように向き合うかといったことを真剣に話し合うべきだと思うのです。

参考文献