未来をひらく、歴史(中編)


さてさて続きますよ
今度は歴史の学び方についてやっぱり物申したいので書こうかとおもいます。


一言でいうと、やはり中立的な見方、教え方ができていないなぁと思うことです。



例えば・・・
南京事件南京大虐殺)で中国側は30万人が被害にあったと主張しています。このことに対して「30万人は水増しだ」というひともいれば「そもそも南京事件が起こってすらいない」という人もいます。私も、そのように主張している本を何冊も読んできました。


実のところ、私も南京事件の30万人という数値は信じてはいません。理由をあげれば枚挙に暇が無いですが、当時の南京における人口も30万いたかすら、やはり怪しいと思います。だがしかし、「ほらみろ!中国政府はウソツキだ」というのは早合点だと思います。なぜなら、広島・長崎の原爆投下による被害者の数を知っていますか?一応、日本アメリカ共にwikipediaを見て調べたところ、広島14万人・長崎7万人ということで大体の見解は一致しています。だがしかし、日本国内では「もっと多い!」という人が、アメリカでは「もっと少ない!」という人が根強くいるのです。それは、被害者側は大きく見積もろうとし、加害者側は小さく見積もろうとするものなのです。南京事件の30万は頭から否定しておいて、原爆の死傷者はかたくなにその数字を守ろうとしているのなら、それはおかしな話と言えるでしょう。


参考:wikipedia 日本 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE

米国:http://en.wikipedia.org/wiki/Atomic_bombings_of_Hiroshima_and_Nagasaki



結局、歴史の数ある事象の中で、自分たちの都合のいい部分だけとりあげ、様々な見方があるなかで自分たちの都合のいい解釈しかしない人があまりにも多いのです。




もう一例いきましょう。


これまた物議を醸しそうな事象といえば、東京裁判極東国際軍事裁判)です。日本人において、東京裁判のありかたを否定する人が必ずといっていいほど口に出す人物の名前がパール判事でしょう。これまた問題で、判事はあたかもパールのみであったかのように主張する人が多いのです。東京裁判の判事は11人で、判事長はオーストラリアの人でした。また、パール以外にもレーニング(オランダの判事)とベルナール(フランスの判事)も部分的に反対はしたのです。全面的に反対した人はパールのみでしたが。


参考:wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%A3%81%E5%88%A4


私も、日本人として納得いかない点が東京裁判には数々あります。そもそも、判事で日本語が分からない、英語が判らないという人がいたり、原爆のことはちっとも話題にならなかったりとひどいものです。特に問題だと感じるものが、B・C級戦犯の裁き方でしょう。「私は貝になりたい」を見たときなど、私は強く感じました。やはり、連合国側はろくに調べずに行った感が拭えません。


しかし、別な意味でおかしい点もあります。石井部隊(731部隊)や以前記事にしたのぼりと研究所の部員は、米国への技術提供を条件に、東京裁判では基本的に裁かれてはいません。そして、彼らはのうのうと大学や大企業の要職へと天下りしていったのでした。また、昭和天皇も裁かれることはありませんでした。(ただし、昭和天皇は、戦争に関する罪の意識を感じさせる行動、発言は結構あります。)


日本人の「東京裁判否定論」といえば、判事はパール一人だけを擁護し、B・C級戦犯の悲劇を強調し、それをA級戦犯の裁き方へと論理のすり替えを行うのが大抵でしょう。(B・C級戦犯A級戦犯の裁き方は根本的に違います)その反面、裁かれるべき人が裁かれなかったことに関してはまず言及しないのです


私は、そもそも根本的に人間が人間を正確に裁くことなど可能な事なのでしょうか。仮に日本人が戦犯を裁いていたらどのようになっていたでしょうか。日本は、降伏するときも、憲法を作り変えるときも、天皇制を維持し、戦犯を日本で裁くことを主張していました。もしそれが現実のものになっていたら、どのような批判が生まれるでしょうか。考え直してみる必要がありそうです。また、もうひとつの原因は、そもそも自分達以外の歴史がわからない、すなわち世界史をやっていないことも原因だと思います。


このようなことは、何も日本だけで行っているわけではありません。私から言わせれば、中国も韓国も同じです。教科書などを見ればよくわかります。しかし、これではいつになっても「友好」だの「共通の歴史認識」は遠く離れたものになってしまいます。


私たちが社会生活を送る上で大切な事のひとつとして、「自分達の都合のいいことばかり言わないで、相手の主張も聞くことが大切」と教えられます。ですが、歴史が絡んでくるととたんに自分達に都合のいい解釈、主張しかしなくなりがちです。なぜできないかといえば、それは私たちの根底に眠る不健全なナショナリズムがそのようにしているのです


歴史を政治的なもの、ナショナリズムと切り離して学ぶことは難しいことですが、でもできる限り切り離して学ばなければならないのです。そう、自分達のナショナリズムを肯定したいがために歴史を学んではいけないということです。そもそも、歴史における最初の持つべき疑問は「昔の人はどのようなことを考え、暮らしてきたのか」というところから始まるはずです。さもないと、自国民に都合のいい史料を並べ、都合のいいように解釈して、「はい、歴史勉強しました!」と言う事に他ならなくなってしまうのです


だから、教育改革が叫ばれる昨今、日本の文化や伝統を愛することをスローガンにしていますが、私はいささか不安なのです。そもそも、自分達の美点ばかり並べても、愛国心だろうと愛人だろうと、愛としての奥は浅いと思います。「欠点も多いけど、だけど好き」といえるほうがよっぽど愛としての奥は深いものでしょう。多分、これが健全なナショナリズムというものなのかもしれません。


私は、日本という国は明治以降、西洋のものを形だけ受け入れ、その中身を比較検討されてこなかったため、外国の文化のうわべをなぞってきたような面があると考えています。また、戦争のやり方もまずく、多くの国に傷跡を残した国です。でも、今は失われつつありますが、日本人が古くから美徳にしてきたことは、たくさんあるのです。例えば唱を読む習慣、茶の湯などにみる礼儀作法、武士道の精神などです。私は、そんな人が増えてくるともっと日本がいい国になる気がしてなりません。


日本史と世界史どちらが不健全なナショナリズムから遠ざかることができるか、広い視点を身につけることができるか、それは世界史であることが明白です。だからこそ世界史を必修にすべきであり、とても大事な教科だと私は考えるのです。「受験に必要ないから。」などと言っている場合ではありません。「世界をまたにかけて・・・」などといっている人は、それくらい勉強しておいたほうがいいでしょう。


次回は、各自自分の都合のいい立場で述べるということを排除し、できるだけ客観的、中立的な視点で書かれた書籍と映画を紹介します。