犯罪者に対するモザイクと社会の闇

今回は志向を凝らして、話題は違うが、行っている事の本質は同じというエッセーを二つ続けようかと思います。これは前回のオタク論と内容が少しリンクしております。


前回の要約とかしてみましょう。そうしよう。


・オタク論となると、オタク側にばかり原因を求めているが、オタクにばかり理由を求めるのが正しいのか。

→オタクを蔑む側は、自己肯定感を得るため、オタクを蔑んでいるのではないか。
→オタクを蔑む側は、劣等感を解消するため、オタクを蔑んでいるのではないか。
→オタクを蔑む側は、オタクを僻んでいないか。


ということでした。

というわけで今回はこんなお話。


 私は、よく朝ズバッを見ています。というのも、朝から「みの節」が聞けるのが結構気に入ってたりするのです。その朝ズバッで、みのさんが少年犯罪に対してレポートするとき、「これモザイク消すべきだろう」と言っていたことを何度か聞いたことがあります。私も「まったくそのとおりだー!」と私は思います。

 
 これは、加害者に対する過剰な人権擁護といえますし、被害者に対する人権軽視ともいえます。報道をはじめ、世の中全体にこういった風潮があるような気がします。 
 

 たとえば、いじめ事件では、専門家を名乗る人物が「いじめられる側にも問題がある」と堂々と公共の電波でコメントすることも少なくありません。少なからず原因があることは否定できませんが、いじめはいじめる側の心の病です。(前記事参照)真に矯正されなければいけない人間はいじめる人間なのです。なぜ、これほど当たり前なことがきちんと報道されないのでしょうか。
 
  
 また、先日話題になった、山口での母子殺害事件でも、同じことが言えます。高裁の判決は、家庭環境と計画性が考慮されましたが、正直あきれ果てました。確かに、恋愛では「人目で見て惚れました」っていうのと「ずっと前からあなたが好きでした」というのではぜんぜん好感度がちがうでしょう。しかし、そのようなノリで凶悪犯罪を情状酌量されたのではたまってものではありません。突発的な犯行だとしたら、突発的にこれほど残忍なことを思いついた、行動に移したということで余計に罪を重くするべきだと思います。加害者側の弁護人はそれが仕事だから仕方ないですが、裁判全体が、最初から少年の情状酌量の余地を模索しているような気がしてなりませんでした。
 
  
 その反面、どう考えても人権無視といえそうな、いじめられる側の身辺を洗いざらい報道が平気でまかり通っています。しかし、加害者がまだ幼いと、人権擁護という名目で、その素性は全くと言っていいほど明らかにされません。また、被害者が悲しみにくれる遺族や友人にしつこくマイクを向けることはあれど(これまた人権無視ですよ)、加害者にマイクを向けて、謝罪の言葉やいかにむごいことをしたかが直に聞けることはまずありません。社会的に許されない凶悪犯罪であればあるほど、その傾向が強いように思われます。

 
 オタク本人をバッシングするだけで、オタクをバッシングする側における、心の問題を中々指摘しない風潮といい、加害者の人権保護ばかり重視して、それ以前に被害者の人権が守られない風潮といい
 
 「弱者や、自分と異質なる人に対する想像力や配慮を欠いた社会」
 「弱者や、自分と異質なる人をバッシングしたもの勝ちな社会」

 
 といった社会の闇の部分が見えてくる気がしてなりません。