「ミンナナカヨク」は幻想か?


こんにちは
前置きナーシ(実はネタがなーしw)


最近、私の周りにはいざこざが多いです。
そういうときによく聴く言葉が「みんな一緒にいたい(離れ離れになりたくない)」「みんなで楽しくやりたい」「この関係が崩れたくない」というものです。

すべてがこのようにうまくいけば良いのですが、現実にはそんなことはありえません。


私の考えをズバッと言ってしまうと、正直「ミンナナカヨク」は幻想だと思います。確かに「みんな一緒に仲良く・・・」という考え方自体はとても良いことであり、大切なことです。しかし、主義主張が違う人間同士が一緒にいれば葛藤が起こることもありますし、利害が対立することもあるでしょう。それが人間のごく当たり前の姿であり、現実というものなのです。そして、いざこざが起きているを無理して打開しようとすること、もっとお互いにとって不幸な結果を招くことになりかねないのです。


たとえば、リーダーやグループを管理する側が思い悩んだりストレスでつぶれてしまうケースが思い浮かびます。これはそのままなのですが、リーダーがお互いの言い分を聞き、妥協点を探し、あちらこちらから湧き上がってくる愚痴を聞かされれば、人間関係の最もドロドロした部分をこれでもかと味わうことになります。精神的に参ってしまったり、「自分は人をまとめるのに向いていないかも」と自信を無くしてしまうことは当然でしょう。


他には、言論統制を行ってしまうケースです。そもそも、いざこざの無い組織、すなわち統率のある組織とは、意見・思想が整っており、反乱分子が無いことなのです。だから、いざこざをなくしたい、ということであれば思想統制言論統制を行えばいいのです。すると、リーダーのそばにはイエスマンばかりがいる・・・ということになりかねないのです。そういえば、ヒトラースターリンも、当初の理想は「みんなが住みよい、いい国・強い国が作りたい」であったはずです。しかし、その思いが強すぎたため、結果として行ったの事は反対者を弾圧することだったのです。粛清という名のエゴを押し付ける行為です。そう、歴史がそれを証明しているのです。


もう一つ挙げるとすれば、それは個性の圧迫です。組織の統率を目指すなら、他に邪魔なものといえば個性でしょう。組織が、一つのことにまとまることを金科玉条のごとく奉じてきたメルティングポット論という言葉を出せばもっとわかりやすいでしょう。これは教育の現場でも、最近では経営の現場でも非難されてきた手法です。ちなみに、個性を出しつつ統率もある程度図るやり方はサラダボール論というようです。


このような悲しい結末が起こる理由は、いざこざを恐れすぎ、組織のまとまりばかり重視しすぎ(組織から『浮く』事を必要以上に恐れすぎ)だと思います。二つをまとめれば、最初にでた「ミンナナカヨク」にこだわりすぎだということなのです。


だから、私は皆さんに問いたいのですが(といってもほとんど反語ですが)
A.いざこざが無いことが本当にいい人間関係なのですか?
B.理想的な、仲のいい人間関係とは、常に一緒にいることですか?
C.人を必要以上に抑圧したり、精神的負担面が多い人間関係を続けて、何になるのですか?


私の考えは
Aについては、いざこざを必要以上に恐れれば、本当に組織の為を思ったダメ出しもできず、本当に相手のことを思った助言もできないことが(なんでもかんでも「まぁそれでいいんじゃ〜ん?」など)予想され、ナァナァな関係になると思います。
Bについては、常にそばにいなくても、いい意味で切磋琢磨したり、会えないからこそふと連絡取れたときにうれしくなるものです。「離れていても、立場が違っても、うちらは友達さ」というのが本当に仲のいい人間関係だと思います。
そして、Cについては、組織のみんなをおもって、常に献身的努力をする人(特にリーダーやその補佐役)をよく見ます。私には真似できないと常に思いますし、そういった方々に深く敬意を抱いています。しかし、「みんなのため!」を重視するがあまり、自分がその組織にいること、その環境を楽しむことを忘れていませんか?自分の楽しさをさて置いて、相手の楽しさばかり追い求める姿は、傍から見るととても痛々しいものです。私は、人を楽しませるのならまずは自分が楽しむべきであり、自分の楽しそうな姿が、本当に相手を幸せにするのではないかと思います。(ただし、誤解の無いように言っておきますと、他の人の楽しみはさて置いて、自分の楽しみに走っていい、ジコチューに振舞っていいというわけではありません。皆がすごしやすいように振舞う気配りはある程度重要ですよ。)


多くの人を精神的につぶしてしまうような組織など、つぶれてしまったほうがいいですし、遅かれ早かれつぶれるでしょう。また、集団の中で自己を抑圧すればするほど、皆が幸せになるとは限りません。



私の結論としては、「ミンナナカヨク」を妄信的に信じる方々は、某フラッシュの様に「ユメカラサメナサーイ」と言わざるを得ません。以前リーダーをしていた経験的があり、いざこざがたくさんあったけど乗り越えてきて、うまく事を成し遂げた上で「それでも私はミンナナカヨクを信じる」というならまだ判ります。また、どのようにすれば「ミンナナカヨク」が実践できるか、具体策を示したものもアリだと思います。しかし、何も根拠なしに「ミンナナカヨク」「ケンカイクナイ」を連呼する事は、小学生が「大きくなったら総理大臣やになりたい」と言っていることと変わりがありません。このような方々がリーダーになったら上記の3パターンに当てはまるのがオチでしょうし、リーダーにならなかったとしても、裏で献身的に努力している人を見落とすことになるかもしれません。


それに、「ミンナナカヨク」が」好きな彼らがとてもすきそうな言葉といえばおそらく「協調性」でしょう。しかし、世の中には「強調など、しないよ」という人間のほうが、本音で話しやすかったり、わけ隔てなく付き合えるということで、案外良い人間関係を築いていたりするものです。「協調性を持ちましょう」といった教科書に書いてありそうなことをそのまま言うことは簡単なのです。だから、私はそんな空虚な中身の無い言葉より、グループの中で輪を乱すものがいたり、利害が対立したらどうするのか、グループの二人が同じ異性を好きになったらどうするか、リーダーが頼りないときに自分ならどうするか、そういった地に足が着いたことを聞きたいのです。


だから、私が思う良いリーダーの条件とは
「ミンナナカヨク」「人をうまくまとめる」ということの難しさをよく判っている人だと思います。すなわち、人の癖組を理解している、もしくは理解しようとしている人間だと思います。そして、そのような人間は軽はずみに「ミンナナカヨク」などと言うとは思えません。


大切な補足しておきますと・・・。
より良い人間関係を作るには「言いたい放題言うことが大切」、「組織に対して献身的に振舞うより自己の楽しみを追求することが大切」「個性や言論の圧迫イクナイ」といいつつも、それは遊び友達の中・学生の間・ネトゲなどの中に限られます。なぜなら、仕事の上ではよりよい人間関係を作ることが目的ではなく、その組織が利益を上げることが目的だからです。仕事でも、最近は好き嫌いで判断する人事・ダメだし歓迎の人事が脚光を浴びているみたいですが、それでも日本社会的な「和」を好む環境が根強いことは確かです。だから、仕事の現場で言いたいことなんてそうそういつもいえませんし、あいつ嫌いだから一緒に働きたくないとはいえません・・・よねぇ。


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