樋口裕一著頭がいい人、悪い人の<話し方>・<言い訳>術・<口ぐせ>(後編)


えーこんにちは
本には書かれていませんが、最近私が気になる言い訳、口癖を書いてみました。
著者本人もググって書評などを見ているようなので、見てもらえたらいいですね!
原書に似せて、「だ、である調」で書いてあります。ねこまんんま学園初ですw
さあいってみよ!
まぁもはやここまでいくと書評じゃないけど。。。


・なにかとあると「自由」「権利」を振りかざす


自由や権利というものは、憲法でも保障されているとおり、人間の大切なものといっても過言ではない。しかし、捨て台詞のように使ったり、必要以上に主張するのは考え物である。この手の言い方で、よくありがちなのが、「○○は私の自由でしょ。口出ししないで」という言い方である。


こうした言い方は、十代の反抗期などに、親や先生、場合によっては友達に誰しもした経験があるのではないだろうか。そう、ちょうど自我というものに目覚めだし、自分の考えで行動したい、反骨心の現われともいえよう。そして、時がたつにつれ、自己の主張やできることがまだ浅はかだったことを知り、相手にも同じように自己というものがあることを知る。そうして大人になっていくものであり、ある種の通過儀礼といってもいいだろう。


だがしかし、成人し、就職適齢期が近づいてきた大人がこういったことをすぐ口にするのはいかがなものか。こうした言い方は次の三つの点で愚かである。


一つ目は、「これはこうしたほうがいいよ」と助言、注意した相手に対して、「自由でしょ」ということですべて片付けてしまい、コミュニケーションを拒否してしまっていることである。確かに、「こうしたほうがいいよ」といっているつもりが「こうしなさい」と聞こえてしまうケースは多い。仕事の現場などではない限り、過度な押し付けは控えたほうが懸命だろう。しかし、「自由でしょ」といってしまえばそこで会話が終わってしまい、自分が何を考えているかを伝える機会と、相手が何を考えているかを知る機会が消えてしまう。「私にはこういった考えがあるのです。」と丁寧に言ったほうが荒波も立ちにくいであろう。そういったコミュニケーションを拒否している時点で愚かである。


もう一つは、「自由」だの「権利」だの声高に主張する人間に限って、他人のそれには無頓着であるケースが非常に多いのである。例えば、意見を言い合う現場(ブログでも同様)で他人の意見を無視して自分の意見ばかり主張する人間に対して、意見に耳を貸さなかったり、汚い言葉を使わなければある程度野次ることも「自由」である。また、団体行動で、常に自分こそがルールといった行動をする人間に対して「あっちへいってくれ」ということも、仲間はずれにすることも、また「自由」である。だが、他人のこうした「自由」「権利」を使うと烈火のごとく怒り出す人が少なくないが、彼らもまた当然のごとく「自由」「権利」を使ったに過ぎない。そう、「自由」や「権利」はあなただけに保障された特別なものではない


だが、上記の例は売り言葉に買い言葉となってしまっている面は否めない。そう、各自が思うままに「自由」を振りかざしていたのでは、物事や社会が成り立たない。まさに「万人の万人に対する戦い」といえよう。だからこそ、各自の「自由」「権利」は制限されてしかるべきものである。よって「それは『自由』じゃなくて『勝手』じゃないのか」とツッコミが入るような「自由」「権利」の振りかざし方を続ける人は、やはり愚かと言わざるを得ない。


三つ目は、「自由」「権利」は今でこそあって当たり前のものであるが、一般市民がこうしたものを勝ち取るまでには様々な困難があったのである。その困難の歴史や、これらが保障されなかった時代の人々の生活について少し学んでも良いのではないか。そういったことをせずに、ただ当たり前のように「自由」「権利」を享受し、必要以上に乱用することは、やはり愚かといえよう。