20冊書評Vol.1 清水敏彦著「他人を見下す若者たち」


なんかねぇ・・・。
書評を書こうとするとその本が無いんですよ。どっかいっちゃったり貸してたり(言い訳)
そんなことより本題本題!


要旨


他人を見下す若者たち (講談社現代新書)

他人を見下す若者たち (講談社現代新書)


近年、若者の感情とやる気が変化している。感情の面で言えば、明らかに怒りの面が増えている。
しかも、その怒りの対象は社会の不正に対してでも、他人のために怒るためでもなく、専ら対象は自分である。
そう、自分の尊厳や立場を傷つけられると生存本能的に怒ることが多くなったと、筆者は指摘している。
その反面、今までとは違った、他者を見下す時に見られる冷笑的な笑いも増えたという。


そして、その生存本能は他者を見下すということにつながっていく。
現代人は、自分の体面を保つために、周囲の見知らぬ他者の能力や実力を、いとも簡単に否定する。周囲の見知らぬ他者の能力や実力を、いとも簡単に否定する。世間の連中はつまらないやつらだという感覚を、いつのまにか自分の身に染み込ませているように思われる。(中略)このように若者を中心として、現代人の多くが他者を否定したり、軽視することで、無意識的に自分の価値や能力を保持したり、高めようとしている。
(本書、帯より。)これを筆者は「仮想的有能感」と呼んだ。


筆者は「仮想的有能感」が現れる背景として、現代はいきいきと生きている感覚が減少しているため
かえって生存本能が浮き彫りになったとも見ている。
皮肉な話だが、その生存本能である「仮想的有能感」をむき出しにすればするほど
生きている実感が失われていくのである。
これが、筆者が「現代人のやる気が変わった」と考えるものの本質である。


そして、筆者はITの発達、ネット社会、ドラマよりニュースを好むようなありかたを
仮想的有能感」が生じやすい原因と考えている。
そして、この状況を打開する妙案は無いが、しつけ、地域社会の再生、そして感情を受け止め
共有できる場を持つことが大切ではないかと締めくくっている。




私は、書評を書く前にネット上での書評を参照し、その話題をチェックしている。そうして見ていると、結構酷評が多い。「視点は鋭い」「確かにあたっている」という意見もあるが、煽りといえるものも多かった。もはやこれでは書評ではない。客観性やきちんとした理由も示さないで煽り口調で筆者を批判する。そうすることで筆者より上という立場を誇示しようとする。これこそ「仮想的有能感」に他ならないのだが。


この本の指摘は確かに鋭く、読んでいてドキッとさせられた節も多い。そしてなにより、アマゾンに100件を超える感想が載るなど、反響がも大きかった。あれだけ反響が大きかったということは、それだけ何か思い当たる節があったということだろう。人は自分にまったく関係ないものに対しては、意見などしないからだ。


だが、批判が大きかったことも事実である。その中で最も多く見られたものが、「団塊世代の若者批判本」「酒の席での愚痴をそのまま本にした」といったものである。つまり、若者だけがターゲットにされていることが不服のようだ。


その批判も、的を射ていないわけではない。なぜなら筆者は、仮想的にせよそうでないにせよ、有能感をもって他者を見下すことは人間のなにか根源的、本質的なものという視点が欠け落ちているからだ。そうして人間は劣等感やコンプレックスから自分を守っているのである。いわば、生存本能だ。そして、人間が生きている以上、生存本能が表出するのは当たり前である。どうも筆者の書き方は、大人(団塊)世代はそのような本能はなく、若者だけに特有の現象のような書き方が結構見受けられる。だから反発を招くのである。人間の根本的なものという視点に立った上で、「最近の若者をみると特に顕著になったと思われる。」と述べるのなら共感できるのだが。


歴史を見てみよう。中国は自国の強大さゆえ、周りの国を「南蛮」などと見下して言った。それに対して朝鮮は、中国を兄貴分として、その劣等感の裏返しとして日本などを見下した。対して日本は、近代以降、西洋に対してのコンプレックスを裏返しとして中国や朝鮮を逆に蔑視していた。中国は周辺民族とは戦った歴史を歩んできたといえるが、日本とは近代以前は文永・弘安の役くらいしか戦ったことがない。朝鮮は豊臣秀吉とやりあった程度である。それだけで蔑視するのはやはり「仮想的有能感」ではないのか。


筆者は有能感が近年、どんどん根拠を持たないで仮想化していくことを問題視している。だが、根拠があってもなくても、他者を見下すことにより有能感を味わう反面、大きな代償を支払っていることは同じである。それは、その人自身の生き生きさと深淵な人間関係である。他者を見下している間は人と腹を割って話せるわけがなく、何かにチャレンジする精神に満ち溢れているともいえないだろう。


確かに、他者から見下されることにより、逆に「なにくそ」と見返すエネルギーが生まれるともいえる。だが、多くの場合は見下した相手を裏みに思うか、見下された劣等感をもっと見下しやすい別な他者にぶつけようとするだろう。これも何か人間の本質的なものであろう。


だから、私たちは次の三つの中から選択をすれば良いと思う。一つ目は、他者を見下し続けて常に劣等感から逃れようとすることである。二つ目は劣等感を味あわないように常に努力し、見下されたり、指摘されるスキを作らず、物事を完璧にこなすことである。三つ目は、他者を見下したくなるのが人間の本質だと認めたうえで、そこからできるだけ遠いところに自分を置くことである。見下されても劣等感を感じず、安易に見下したりしない生き方である。この中で、一番あなたにとって価値のある生き方を選択すれば良い。それが、この有能感に対する最も効果的な対処法だと思う。ただ、一つ目と二つ目はかなりつらい生き方だとは、個人的には思うが。


対して、筆者の対処法は「妙案を持ち合わせてはいない」というが、その回答としてしつけや地域社会の再起を促すというのはおざなりすぎやしないか。地域社会やしつけの欠乏というのは、現代批判におけるお約束のパターンである。なぜなら、これらは現代になるにつれてて人々が失ったものの典型だからである。単なる現代批判にならず、人間の本質的なところから結論が出せれば、もっと面白い書になっていたのに、残念である。


全体として、後半部分に大きくハテナを残す展開がみられたが、それでも、人間の感情というとても難しい部分のデータをできるだけ取り、その上で鋭い指摘をしたことは賞賛できる書である。言い方を変えれば、研究は良かったが、筆者の立ち位置がまずかったせいで、多くの批判を招いてしまった残念な書ともいえるだろう。


初回から長くなった&辛口になってしまった。。。