人の死で何想う?(前編)

ブログにマイナスの話題はご法度という人も多い。
だが、ブログには自分の身辺に起こったことを素直に記すべきだとも思うし
またその内容が読者のみなさんに価値あるものなら、それを公開するのもアリだと思う。

久しぶりに書くエッセー。皆さんの為になってもらったら嬉しい。




先日、筆者の祖母が亡くなった。
享年82歳。筆者の誕生日に脳梗塞で倒れ、品川の病院で二週間程入院した。10月下旬、病院から母の元へ「吐血している」との一方があった矢先の出来事であった。残念ながら、母親がすぐ向かったが、その最後を見届けることが出来なかったようだ。私は池袋で埼京線を待っている間にその一報を聞いた。


これで、筆者の元から祖母、祖父といえる人間はすべていなくなったことになる。


ところで、「人の死は人を強くする」とはよく言われる。その理由は人の死によってもたらされる「やさしさ」と「厳しさ」のような気がする。


人が死ぬと、まず感じるのは人のやさしさである。人が死んだときに見送る病院のやさしさ、喪主を支える葬儀屋、そしていろいろと協力してくれる親族である。というのも、親族が受付を進んでやってくれたり、来客にお酌をしたり、献花料をボンと出してくれたり、ずいぶん協力的なのだ。ほかにも、故人の友人がすごく気を落とすさま、故人を想うさま、すべてがやさしさに包まれているように思える。人と人が協力する姿、それによって人がつながるという姿を筆者は久々に見た気がする。


が死ぬことにより始めてそのやさしさを実感する。なんと皮肉なことであろうか。筆者も普段から世の中を拗ねず、人のやさしさを素直に受け止めていればもっとまともな人生を送れていたであろう。


そしてもうひとつ、人が死ぬことの「厳しさ」である。筆者の心の中に「祖母はいつまでもいて当然」という「甘え」があったと思う。というのも、筆者は大学卒業後、祖母と二人で旅行に行く予定をたてていた。しかし、ダラダラしているうちにナァナァになってしまい、ついにその予定は予定のままで終わった。やっぱり、父も母も祖母に対してそういった「甘え」があったようだ。


どうやら人間というやつは、「安心」とか「あたりまえ」という考えを持ってしまうと、それが失ったときのことはあまり考えない生き物のようだ。人がいるありがたみなんて、慣れてしまえば空気のようなものになってしまうのだろう。「出会ったころのように新鮮です」なんてことは年月が経つほどいえなくなるものだ。


「病気になってはじめて健康のありがたみを知った」「親(彼氏・彼女)がいなくなって初めてその大切さを知った」というのは人間誰しも感じる真理のようなものらしい。


では、筆者はどこから始めればいいか。月並みかもしれないが、まずは「ありがとう」をきちんといい、相手の「ありがとう」をきちんと受け止めることである。筆者を改めて見つめなおしてみると、なにかしてもらったときに「どうも」しかいわなかったことが多い。大切なことは「どうも」の次にある「ありがとう」なのだ。


そして、筆者にもそろそろ真剣に親孝行をしなければいけない時期が来た。
父が来年定年を迎える。それをきちんとねぎらうことから始めようと思う。