人の死に何想う?(後編)


愛ってなんだろう?
まさかそれを人の死によって実感するとは。


祖母の家は、会社の近くにあった。そのため、よく泊まりにいったり、食事をご馳走になったりした。しかも、五反田や品川付近で飲んだとき、終電が無くなっていきなり電話して一晩止めてもらったりと、無茶苦茶なことをした。そして、感情の赴くままに祖母に対して文句を言ったこともかなりあった。ひとことでいえばトンデモネードラ息子である。


だから、筆者は「祖母がいなくなるまでにもうすこしおばあちゃん孝行をしておくべきだった。」「祖母は返ってこないであろう愛情を注いでくれていた事にも、今となっては頭が下がる思い」だと葬式の日、親族をはじめ、参列したいろいろな人に言って回った。こんな筆者でも罪滅ぼしといった考えがあったらしい。


そうするとどうだろう。皆異口同音に「でもね、それがおばあちゃんにとって、うれしかったんだと想うよ」と言う。何人かに言って回ったが、「皆裏で口裏あわせでもしたのか!」といいたくなるほど同じようなことだった。そして、付け加える言葉もまた同じだ。「あなたが子供を持ち、人生経験をし、年をとるにつれてきっとわかる。」と言われた。私は言われた当初、その意味がわからなかった。


だが、その二週間後くらいに、とある出会いがあった。
そのおかげで何を意味するか、それなりにわかってきた。その相手にはいくら感謝をしてもしたりないほどである。そこでちょっとわかったことをホザいてみるとしよう。



人は「やさしさ」「あなたを想っている」そして「愛」といった名の下に自分の考えやエゴを押し付けている。「人に『やさしい』こんな自分が好き」などと自己肯定に使ったりもする。また、メンツや自分のほうが目上という観点で「やさしく」するケースもある。


本当にそうかって?
それは試してみればわかる。その試し方とは、あなたがその「愛」や「やさしさ」で言いなりになることを拒否してみる。もしくは、迷惑や苦労をかけたり、いっそのこと否定してみることだ。無反応でいるのもいい


人間は感情の生き物だから、そんなことをしたら、それはそれで怒るだろうし、逆に落ち込む人もいる。自分の「やさしさ」や「愛」が受け入れられないととたんに自己を否定された気持ちになる。だからやっぱり、相手のためとかいいつつ自分の為に行っているのが人間という生き物の本質なのだ。だからといって、それが悪いとか直すべきとか言いたいわけではない。


だが、その後で、「愛」や「やさしさ」の質が見えてくる。その「やさしさ」や「愛」が否定されても、抗われても、思い通りにいかなくても、そして苦労や迷惑かけられても、やっぱり沸いて出てくるのか、それともそこで自分しか見えないかという違いだ。


私は、よく祖母に我侭を言った。無茶を言った。また、祖母の「やさしさ」や「愛」を否定したこともあった。それでも、祖母は一貫して私を見てくれた。筆者が迷惑をかけたり否定したりされたときは、一時的な怒りや落ち込みの感情はあっても、その奥底には私を受け入れていたのである。そしてそれを祖母は「喜び」へと昇華していたのだ。

 
愛とは何か。その答えのひとつは「相手を受け入れること」だと筆者は思う。愛ややさしさなんて、思い通りにいかなかったり、空振りすることなんてしょっちゅうだ。
でも、そこから先が勝負どころで、相手を受け入れている限り、その想いは雑草のようにまた、生えてくる。