なぜ信長は好かれるのか


こんにちは
なんかまたですね、goldwellさんがやってくれちゃって
三国志に続いて日本の戦国時代に対するアンケートをやってくださったみたいで・・・。
まぁ今回はそれについてまぁ感じたことをつらつらと・・・。ってやつです。ちなみに三国志曹操編を読んでくださった方は続きだと思ってください。
歴史知らない人にも読めると思うのでよかったら「続きを読む」を押してね。


アンケートの内容はこちら

http://q.hatena.ne.jp/1168784594


goldwellさんがご自身のブログでまとめられたものはこちら。


http://d.hatena.ne.jp/goldwell/20070121


で、goldwellさんのまとめたものを拝借すると。。。


Q2:一番好きな人物は?(一名のみ、必須)

順位 名前 票数
1位 織田信長 5
2位 徳川家康 3
2位 伊達政宗 3


Q3:一番嫌い、もしくは「こいつがいなければ・・・」という人物は?(一名のみ、無しでも可)

順位 名前 票数
1位 徳川家康 4
2位 明智光秀 3
3位 豊臣秀吉小早川秀秋織田信長 2


まぁ予想通りみんな信長好き多いですねぇってことです。
ちなみに私は、好きな人物に徳川家康を、嫌いな人物には該当なしとしました。(あえて言うなら朝鮮侵略の件を考慮して豊臣秀吉)あと好きな人物は真田一族・伊達正宗・斉藤道三とかいいですね。


タイトルどおり、信長が何故こんな好かれるのかと考えると、やっぱりその生涯の終え方によるところが大きいのではないでしょうか。




まず、普通に考えれば信長って結構嫌な奴ですよね・・・。
前回比べた曹操もそうなのですが、本人の能力が高い、有能な人間をどんどん採用する、そして敵対するものに対しては結構容赦ないところがあります。


多少異論はあるでしょうが、現代でたとえると、一時期の読売巨人軍ホリエモン、場合によっては村上ファンドみたいなものと近いかもしれません。


彼らの特徴は、とにかく世を騒がせ、賛成派(一部熱狂的なものも含む)が多い反面、それと同じくらいの、いやむしろ、場合によってはそれ以上の数のアンチがいるものです。


結局、それでも何故信長の評価が高いかといえば
・マイナス面を差し引いてもプラス面が多い。
・プラス面ばかり強調されてマイナス面は強調されていない。(これは判断する人がどういった歴史を学んだかに大きく左右される)


のどちらかなと思います。そこで出てくるのがその生涯の終え方なのです。


信長はみなさんご存知、つまり志半ばにして明智光秀の裏切りによって、本能寺の変でその生涯を終えました。でも、これが信長人気の根源な気がしてならないのです。


そこで人々が感じることといえば「あんなに天下は間近だったのに、なぜ?」という切ない気持ちです。これは、日テレの「ニッポン人の好きな偉人100人」(タイトルこうだったかな?)では、一位は信長でしたが、二位は坂本竜馬でした。ちなみに三位は徳川家康です。ご存知、坂本竜馬も志半ばで殺されています。この同情心が、彼らを一位・二位に押し上げているのではないかと思います。


また、あれだけ栄華を極めた信長とそのあっけない最後を対比させると、「おぼれるものは久しからず」といった人生の教訓みたいなものも見て取れますね。「人生50年」という信長が最後残した言葉も意味深ですね。


対して、前回対比させた、三国志曹操華佗を殺害したことや関羽関連(曹操は直接関羽を殺したわけではありまえんが。)の呪いで死んだといわれています。


前もお話しましたが、多くの人が知っている三国志演義において、蜀こそ正統な漢王朝の血筋であり、その名将関羽や名医華佗を殺したんだから自業自得だろー!ってことで、その死を同情する人間は少ないはずです。


一方、あれだけしっかり自己管理をしていた徳川家康も、てんぷーらを食べ過ぎて寝込んだ末、その生涯を終えたとされています。これじゃ滑稽な話だとはとられるでしょうが、同情はかえないでしょうねぇ。。。


と、いうわけで、なんかベタですが、信長人気の根源は、その生涯の終え方によるものが大きいと、私は考えます。


ここで信長ネタ三連発。


その1:信長は本能寺の変で死んでいないのでは?


こう考えられる最大の理由は、光秀の娘婿である、明智秀満が探したのですが、信長の死体が見つかっていないということです。(ちなみに、これは信長を慕う僧侶たちがコッソリ埋めただろうという説もあります。)理由はほかにもいろいろありますが、私も信長は本能寺の変で死んだとは思っていません。


その2:本当に本能寺の変明智光秀が首謀者?


本能寺の変は謎が多くて、いろいろな説があります。
例えば、信長の側近である、森蘭丸が実はスパイで、本能寺の変へと導いた説があります。これは、森蘭丸の容姿があまりにも他の武将とかけ離れていることと、当時中国で『傾国』という容姿端麗なものをスパイとして送り込む手法がありました。そのことからもまことしやかにささやかれています。


また、朝廷が実は黒幕だったという説があります。要するに身の危険を感じた朝廷が、光秀に命じて本能寺の変をけしかけたということです。


証拠としては、朝廷と光秀の親交の深さを決定付ける資料がもあるようです。また吉田兼見(よしだかねみ)の日記で当時の一級史料でもある『兼見卿記』原本の内容が本能寺の変の前後一ヶ月が欠けており、あまつさえ再度天正10年の項目を新たに書き直されているのです。これ朝廷がやらせたのではないかという説が・・・。私は今のところこれを信じています。


また、徳川家康が黒幕だった説もあります。さらには、信長は精神異常者であり、単に自殺しては格好がつかないから光秀に自分を攻め込むよう命令し、単に光秀はそれに従っただけというけしからん(?)説もあります。


その3:長篠の戦い。三段戦法はうそっぱちだった?


これは、当時最強を誇った武田の騎馬舞台を倒すために信長が考えた策で、鉄砲を打つという作業を三段階の流れ作業にして回転数を上げ、騎馬に近寄らせないという手法でした。

そういえば、昔TBSで「ダウトをさがせ」というクイズ番組で特集やっていたのを思い出しますね。当時たしか小学生だった気がします。でも内容は良く覚えているこのメルヘン。


内容としては、当時の騎馬や鉄砲、そして比較的優れているとされる一般兵を再現して、書物に書かれている距離から馬を走らせ、それを鉄砲で迎え撃つ実験をやったのです。結果は、「どうがんばっても、鉄砲を撃つ人がどんなにいい腕でも、騎馬に近寄られて、やられてしまう。」というものでした。


正しくは、信長が武田軍を迎え撃つため、柵を三段にかまえたというものが後々三段戦法にかわったのでは?と結論づけていました。


確かに、当時の一次史料である鉄砲などがかなり見つかっており、現代においてもある程度復元できることからも、この検証は信憑性が高いのではないかと思います。


まぁ、信長に限らず、こういった逸話は武勇伝はその当時あったものを如実に示したものではなく、後になって脚色されたケースが数多くあります。そういったものを探るのも歴史の楽しみではないでしょうか。


参考:wikipedia 項目・織田信長http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7#.E6.9C.AC.E8.83.BD.E5.AF.BA.E3.81.AE.E5.A4.89


本能寺の変http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89


日本の100人 第一号 織田信長 (はまぞうにありませんでした・・・)